2023年


11月4日(土)

初秋に銀座資生堂ギャラリーで、写真家石内都さんの<初めての東京は銀座だった>という個展を

見た。神奈川県横須賀で育ち15歳の時に初めて銀座を訪れ、その後も様々な出会いを重ねた銀座の

記憶や思い出を作品にしていた。私にとっても懐かしいものばかりだったが”銀座スカジャン”は抜群

だった。スカジャンのスカは横須賀のことで、戦後に進駐していた兵士の遊びや土産のために生産された

ジャンパーである。現在では派手好みな若者が奇抜なデザインのものを自慢そうに愉しんでいる。しかし、

石内さんが撮った”銀座スカジャン”は身頃に使われた、るり紫の絞りと袖の新橋ブルーが清々しく、

哀愁をも感じさせてくれた。

  ”銀座スカジャン”
  スカジャン

スカジャンが好きなわけではない。新橋ブルー、つまり新橋色に惹かれたのだ。この色は明治末から

新橋芸者が流行させた、化学染料による緑みの青である。進取の新橋芸者らしい。

国際的に評価されるようになった石内さんは極自然に、且つ個性的にきものをお召しになる方でもある。

育ったのは横須賀だが生まれは群馬県の桐生と知りなるほどと思った。

 桐生は昔から養蚕や織物が盛んで、繊維業で栄えた。進駐兵士が買うスカジャンの素材はほとんど

化繊だったので、桐生でも大量に生産されたようだ。

現在、故郷の桐生に住まわれている石内さんが、リメイクで古い丸帯を使うスカジャンを発注した。

その出来上がりを見た資生堂ギャラリーの企画責任者が「自分も同じようなものが欲しい」と思った

ことから今回の”銀座スカジャン”は作られた。身頃になるきもの羽織を提供したのは新橋芸者の方々、

裏地や手先の黒いカシミヤは老舗洋服店の所持品で全体を引き締めている。

袖の部分の新橋ブルーは特注として桐生の工場で染められ、18着が完成した。その中の1着が

美しい写真となって展示され、ほかのスカジャンは銀座の旦那衆や新橋芸者ゆかりの方が買ったそうだ。

銀座近辺の人達の協力で作られたので”銀座スカジャン”。

石内さんも新橋ブルーがお好きなのだろうか?資生堂で味わえるカクテルは色々あるのに今回展示する

作品に選んだのは新橋ブルーだった。

”銀座の香り” 
  カクテル                                  



9月22日(金)

年輩の方々から「朝早く目が覚めてしまう」という嘆きを散々聞かされてきましたが、何時の間にか私も

仲間入りをしています。朝食の前に取りためたテレビの録画を見たりしていますが、今日は4時から

”NHKラジオ深夜便”にきものジャーナリスト中谷比佐子さんが出演されるという情報を キャッチ!

中谷さんは”徹子の部屋”という番組ができた初期に何度か出演され、本の執筆も沢山あるので

きもの好きな人達には良く知られています。「お年は87才」と最初にラジオのアナウンサーがいったのは

中谷さん御自身の希望のように思われます。ラジオですからお顔は見えませんが、見えたら皆さん驚く

でしょう。お若い、そして今日は声も若いと感じました。その秘訣は本にも書かれ、ラジオでも述べられ

ましたが、自然のものを身につけること。たとえば紅花染を肌着にして血行を良くすることなど。

お話は多岐にわたりましたが、草木染の山崎斌(あきら)さんの名前が出てきた時には心が震えました。

現在なにげなく使っている草木染という言葉は、山崎さんによって生まれました。島崎藤村の弟子で

若山牧水は友人という文士ながら植物染料の復興を志し、昭和7年に草木染と命名しました。これは

以前に本を読んだ知識ですが、初めて中谷さんと食事をした折、「お酒を何かお飲みになりますか」と伺うと、

「若い頃に山崎宅へ一升瓶をさげて通ったからお酒はもう飲みたくない」というお返事でした。大学を卒業して

出版社の仕事に就いた中谷さんは草木染に興味を持つようになり、山アさんの取材で大いに意気投合

なさったということです。そのお話をまた夜明け前のラジオで聞くことができました。

1972年に山ア斌さんの子息青樹さんが<草木染日本の色>という百種類の草木染布を貼った書籍を

上梓しました。限定800部、草木染に関わる人達にとっては垂涎の的となりました。かなりの年数を経て

<草木染日本の色>の1部が真新しいまま御厚意で我が家に届きました。感謝感激でした。
 
 書籍

 書籍

もう一人の子息桃麿さんに会ったのは中野にある”シルクラブ”のサロンでした。床にすわり壁にもたれ

作業着らしきクシャクシャの袴の両足を投げ出した姿は野武士のようでした。やはり草木染を引き継がれて

いました。私は父君や青樹さんの顔を存じ上げないので、中谷さんがお酒の相手をした話をなさると

桃麿さんの風貌が浮かびます。

中谷さんは<家庭画報きものサロン>に =呉服店の主人が語る 私の地方のきものしきたり=という

連載を企画なさったことがあります。秋田から西へ四国高松までの呉服店を、自ら取材し構成されています。

高松で選ばれたのは”糸しょう”という私の高校の同期生の呉服店でした。

  <家庭画報きものサロン 1986年秋冬号>
 呉服店

御覧の通り結婚する娘のために用意されたきもの、帯、家具など。四国では娘が三人いると家がつぶれる

といわれていました。右上の白っぽいきものの方が同期生のお母さん。私の祖母と仲良しでした。

  中谷さん執筆の本
 本

本の題名<きもの解体新書>、<きものという農業>から推察できますが中谷さんはきもの愛好者というより

きもの探究者です。きもののことは勿論ですが、それ以上に蚕や生糸に精通しています。コロナの影響で上映を

待たされていた<シルク時空をこえて>と いう養蚕業や製糸業を顧みる映画のため、中谷さんは率先して昨年の

秋に東京で上映会を開きました。現在も応援なさっています。フランスのリヨンは絹織物で有名ですが、

江戸時代の終り頃、蚕の伝染病で壊滅状態になりました。それを伝え聞き、救ったのは十四代徳川家茂だった

ことを御存じでしょうか。ナポレオン三世に蚕種(卵)を多量に送り、フランスでは大恩人と思われているそうです。

日本ではあまり知られてなく、私もこの映画で知りました。横浜や八王子などの公的機関でも上映会が行われ

ましたのでWebサイトを詳しく調べ、是非上映会に御参加下さい。


8月2日(水)

1987年 西武デパート池袋本店 ”西武アート・フォーラム”のパンフレット
 パンフレット
 (本姓 甲斐  1931年頃から甲斐とし た)

初めて甲斐荘楠音の絵画を観たのは、西武デパート池袋本店で誂染コーナーのアシスタントをしている頃だと

長い間思い込んでいた。最近改めて赤い表紙のパンフレットを手にとると、西武デパートの店内催事に間違いは

ないが行われたのは私が誂染コーナーを辞して10年近く過ぎてからだった。ということは、わざわざ甲斐荘の

作品展を観るために西武デパートへ出向いたことになる。そして作品展をどうして知り出向く気になったのか考えて

みたが定かでない。会場の絵画はおどろおどろしい印象で好きとも嫌いともいえなかった。パンフレットを買い

帰宅して直ぐに本箱の一番端に挟んだ。普段にパンフレットを置く場所ではなかった。無意識に、何時でも手に

とって眺められるようにと思ったのではないだろうか。

2023年 東京ステーションギャラリー入口 
絵画の看板

その後、甲斐荘の絵画は個人蔵をふくめ、あちこちの美術展で観る機会があった。肉感的な熟女だけでなく同じ人の筆かと思うほど

清楚な姿の少女もあり、多様性に驚き感心した。東京ステーションギャラリーでの回顧展も早くから開催日を手帳に記していたものの、

広い会場は疲れるので行くつもりはなかった。ところがNHKの”日曜美術館”で東映の時代劇衣裳それも市川右太衛門着用のものが

展示されていると聞き、「行かねば」ということになった。甲斐荘が溝口健二の仕事に携わり<雨月物語>ではベニス映画祭銀獅子賞を

受け、アカデミー賞衣裳部門にもノミネートされたことは知っていた。しかし私が日常に観ていた時代劇映画にも関わっていたとは!

育った家の近くには映画館が幾つもあり頻繁に連れて行ってもらった。私は衣裳の綺麗な時代劇が好きで、特に東映の<旗本退屈男> 

シリーズが記憶に残っている。主役の市川右太衛門は存在そのものに花があり、ゴージャスで品格のある衣裳を見事に着こなしていた。

あの衣裳のデザインが甲斐荘で、その中の一部が現在東京で展示されていると聞いた時は夢かと思った。

絵画、演劇、映画、越境する個性<甲 斐荘楠音の全貌>こ の題は今回の美術展に相応しい。期待していた時代劇衣裳は

数々展示され、すでに半世紀以上、京都の撮影所で大切に保管されていることを物語っていた。。市川右太衛門が着ると華やかに

見える衣裳だが、甲斐荘が選んだ色彩は実に渋い。私にとっては興味深い現象で、男物だけでなく女物の衣裳も見たいと思った。

甲斐荘は子供の頃から歌舞伎を好み、南座へ良く通っていたようだ。やがて観るだけでなく自ら女形に扮して歌舞伎場面の写真を

撮リ始めた。今回展示されている道行の大きなモノクロ写真は圧巻だ。衣裳は勿論凝っていて、繊細で悲しみを秘めた表情には、

女性の本質を見極めたいという深遠な精神を感じた。しばし私は写真の前に立ち止まった。主催者の思い入れだろうか、出口には

再び同じ道行の大きな写真が飾られていた。
 
市川右太衛門が<旗本退屈男>で着用した衣裳

 散らし


7月9日(日)

Webサイトは便利というか迷路に入るというか様々な情報があふれている。”作州絣”についていえば、「本来の

素朴さを失わせないため白と紺という絣誕生当初の姿を基本としている」という文章があったので、私の絣は紺

だと思っていた。しかし販売用の画面には紺というより青に近い色目の濃淡が多く、青白反物と表示があり

驚いたことに黒白反物という私の絣に似た色目もあった。藍染は繰り返し染めると黒く見えるようになる。それは

気が遠くなるほど繰り返し染めればということで、大変な労力を必要とする。若かった私が能天気に衝動買いし、

現在なお手頃な価格で販売されている黒っぽい絣はどんな染料が使われているのか知りたくなった。Webサイト

にメールを送ると「当時の文献を遡りまして、改めてお返事させて頂きます」と、直ぐに返信を下さった。

なぜか、ドキドキした気持で待っている。

 作州絣

袖の振りには胴裏の上に薄紅の絹を縫いつけていた。もうき ものとしては着られないので梅雨の間に解いた。

これから洗い張りに出して、仕事用の上っ張りに仕立てるつもりでいる。以前より着る機会が増えるかも。


6月6日(火)

このところ虫干しをかねて古いきものの整理をしている。どのき ものにもそれぞれ入手した年月、場所、動機、

譲り受けた謂われなど、大袈裟にいえば物語がある。それは、もう会えなくなってしまった両祖母や母、呉服屋の

御主人、和裁師、恩人、親戚などを思い浮べることにつながり、過ぎ去った日々の反芻ともいえる。

 作州絣 

今回の写真は1970年代半ば頃、池袋の西武デパートで求めた作州絣。

黒に近い地色に白い絣が凛とした花のように見え、一目で惹かれた。ちょうど同じ頃、岡山県美作(みまさか=作州)出身の

友人が出きたばかりで親近感を覚えたこともある。軽い木綿で裏地は着た時の滑りをよくするために絹を使った。裾まわしは

グレー地に臙脂の格子織、今では珍しく貴重になっている。かなり出番の多いき ものだったが段々と大きい白の絣を派手に

感じるようになり何年も眠らせていた。虫干しの折、鏡の前で顔に 当ててみたが外出は無理だと笑ってしまった。しかし、

きものは端然として魅力的な ままだ。地色が黒に近いと書いたが、紫を含んだ黒というべきだろうか、よく見ると白い絣も

ほんのりとピンクがかっている。不思議な色を厭きずに眺めながら、ふと御無沙汰になっている美作の友人を思い出し現在の

作州絣の状況を聞きたくなった。男性なのできものの ことには関心がないかもと思っていたら「最近また織る人が出てきた

みたいだよ」と教えてくれた。

ならばインターネット、興味のある方は”作州絣”のWebサイトへ直接アクセスのほどを。

 作州絣

やはり作州絣も途絶えそうになる時期があったようだが、販売を委託されていた女性が織ることを真摯に学び始め

2012年に正式な後継者の認定を受けている。作州絣は本来の素朴さを失わせないために命名当初の白と紺という

色組を大切にしているらしい。白と紺、黒でも藍でもなく紺?私の作州絣の不思議な色はどのような染料から生まれ

たのか、調べてみたくなった。 つづく。


5月2日(火)

ゴールデンウイークになると郷里さぬき平野の陽光が懐かしくなる。

瀬戸内海には霞がたなびき、高松市の中心にある八幡宮の参道には室町時代から続く盛大な植木市が立った。

子供にとってはオレンジ色の芥子、赤や紫のアネモネ、サトウキビなどが嬉しく、従妹弟たちと輝く陽光を浴びながら廻り

歩いた。

今回のザリガニと昆虫の帯はさぬき平野で伸び伸びと育った、き もの着付師Mさんの御註文である。

七年前、神田川の面影橋近くで自転車に乗ったきもの姿 の若い女性を見かけるようになった。私はシミ抜きや洗い張りを頼む

加工場へ向かう途中で、ある日懇意な御主人に「物凄いスピ-ドの自転車で走るき ものの女性に会うけど、加工のお客さま?」

と聞いてみた。御主人は最初笑っていたが「お客でもあるが、店子だよ」と答えた。加工場の斜め前に所有しているマンション

の住人だそうで「土産に良くさぬきうどんをもらうから、さぬき出身かも知れないよ」と付け加えた。きもので自転車に乗ると

いえば驚く人も多いだろうが、さぬきではさほど突飛なことではなく私も乗っていた。さぬき出身かもと聞き益々自転車の女性に

興味がわき、加工場に置いてあった彼女、着付師Mさんの散らしを持ち帰り、一ヶ月後に行う個展の案内状を 送るこ とに した。

ザリガニと昆虫の帯  素描友禅
 帯
         
 帯

予想は的中、Mさんは個展にいらしてくれた。クルクルした黒目勝ちの瞳が印象的で、どうして知らない人か ら案 内状が届いたのかと

不思議そうな表情をなさっていた。個展ではゆっくり話をできなかったが、その後きものを扱うもの同志として徐々に親しくなった。
 
単にさぬき出身というだけでなく、お互いの実家が電車二駅しか離れていないことも分かった。御縁ですね。

去年加工場で偶然お会いした折、ザリガニと昆虫の入った帯が欲しいといわれた。できるだけ素人っぽく、軽やかな筆致が御希望の

ようだった。スマホで昆虫のお好み画像が送られて来たり、拙宅で図案の資料を見たりして、結局標本のような横並びのデザインに

なった。染めながら思ったのだが、Mさんは幼い頃からカマキリやトンボ、芋虫さえも遊び相手とし、商店街 で育った 私には及びもつかない

さぬき平野の、自然の豊かさを熟知していると。イギリスの詩人ロバート・ブラウニングの<春の朝>を入れるのもMさ んの御希望。


4月2日(日)

王朝模様訪問着
  訪問着  

  訪問着

一昨年にお納めした訪問着をやっとお召しになられたと、晴れやかなお写真が届いた。

四年前の秋に、長く着られる訪問着をといって御註文を頂いたが次の年からコロナ禍で外出も不自由になった。

特にお急ぎではなかったが地色や模様の御希望を伺いつつ進め、染め上げるまでにかなりの時間を要した。

絵巻物を中心に舞楽の楽器や兜、松竹梅、四季の花など古典的な王朝模様をとても喜んで下さった。しかし

一昨年はきものを着る機会などほとんどなかった。少しずつ世情の雰囲気が変わり、最近になって規制もゆるみ、

先月の祝賀パーティーでお召しになられたそうだ。

      訪問着

藤色系の帯を合わされ、ベストコーディネート
      訪問着             


3月2日(木)

春の帯
  帯
  

春や春、寒い日があっても雛飾りを見かけるようになると春を実感します。

今回の帯は先月お納めしたものですが、すでに着用されたとのこと。以前より可愛い雛人形の帯を御希望でしたが

締める期間が限られるのでジックリと考え、子供たちが喜ぶ郷土玩具を加え、おもちゃ尽くしにしました。

バックも桃の花だけでなく桜の花を入れて、春を愛でる帯となりました。

  帯

  帯

1月にアップした壽の帯も仕立上りました。
  帯  


1月2日(月)

卯 と松竹梅文様の風呂敷  西陣織
    兎の文様

今年も快晴の元旦となりました。

新聞の一面は、インタビューを受けるノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんの大きな写真でした。

代表作<戦争は女の顔をしていない>はよく知られ、ロシアのウクライナ侵攻を憂い「文化や芸術の中に人間性を

失わないよりどころを探さなくてはいけない」と語っていました。

世界中にコロナ感染が広がり、思いもかけない戦争が起こり、日常の意識や価値観が変わりつつあります。

コロナ騒ぎになってから、きものを 着るのは控えようという雰囲気がありました。昨年の春辺りから茶道の行事も復活し、 

背筋を伸ばしてきものを着ら れるようになりましたが、きもの離 れの人が一段と多くなったことは否めません。。

壽 の帯  背中の太鼓の部分、模様は垂下まで続いています。         
  

  関東結びは上、関西結びは下の模様が出ま す。
  帯

昨年の暮に締めて下さる方が決まり、仕立屋さんで年を越した帯。色々な壽の字の間に渦巻を入れています。

かなり時間をかけて染めましたが、今年もこのように隠居気分でゆっくりと仕事をするつもりです。

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