2022年
                           
12月6日(火)

シルクラブの玄関     
     シルクラブ    

老舗呉服店、中野山田屋さんからサロンのシルクラブで行う”うみさち やまさちの物語”という<古事記>にまつわる

催しの案内が届いた。迷わず申込をして4日の日曜日に出かけた。能管、薩摩琵琶、打ち物の音楽に語りの女性が加わり、

見応えのある舞台だった。語りの女性の衣裳が太古を彷彿とさせる白っぽい生成りの上下だったので興味津々になった。

グリーン味の青い細帯を、前でゆったりと垂らし、自在に海幸、山幸に変化した。写真はNGだったので見て頂けず残念。

シルクラブの舞台 演奏に使う打ち物が置かれていた
     シルクラブ     

中野山田屋さんを知ったのは1970年代初め、気まぐれな散歩の途中だった。住んでいた所の最寄駅は西武新宿線の

新井薬師前だったが一つ先の沼袋駅も近く、商店街を歩いてみたくなった。静かで道の細い商店街だがバスも通り、

地元に根づいているような寿司屋、鰻屋、畳屋などが並んでいた。そして思わず立ち止まったのが立派な呉服店だった。

間口が広く、奥行もかなりあって、当時の女性ならほとんど皆が心惹かれるであろう品格のあるきものが整然と

飾られていた。しばらく佇んで眺めていたが、人気がないにも関わらず店内には得も言われぬ空気が漂っているように

感じた。その時は飾られた上質な呉服が発するものと思ったが、その呉服を選んだこともふくめ御主人の仕事に対する

情熱だったと後々知ることになる。

西武デパートで誂染コーナーのアシスタントになった頃、京都の山科にある草木染研究所のチーフが山田屋さんで個展を

開くことになった。チーフとは懇意だったので山田屋さんへ挨拶に行ったが、建物はすっかり変わっていた。

バス通りに面したオープンな呉服店だったのが、和風の引戸から入り、玄関正面には衝立が置かれていたので武家屋敷

のような印象になっていた。すぐに御主人らしき方が出ていらして、「どうぞ」といわれた。その折はチーフに挨拶をした

だけで御主人とは話をしなかったが、京都に新しく”全国植物染織研究会”ができてから顔を合わせる機会が増えた。

その後、山田屋さんのバス通りの店は更に改築され、サロンのシルクラブができたのは1988年だったと記憶している。

シルクラブは素晴らしい和風建築で、次々に企画される催しも愉しかった。呉服の展示はいうまでもないが、自然布の衣類、

イランの絨毯、それから木工や彫金などなど、生活を豊かにするクリエイターの集まる場所となった。”シルクラブ”という

字をデザインされた華道家の中川幸夫さんの個展で、建物がレモンの香りに満ちたこと、咲き始めた庭の桜の木の下で、

大野一雄さんの子息が舞踏を披露したことも懐かしい。

今回の催しで能管を担当された方は15年前にもシルクラブで演奏をされ、御主人も客席で聴かれたそうだ。が、次の朝

亡くなられていた。筆まめな方で、夜中に書かれたでであろうセンスのいい絵葉書を近くに住んでいる私にも何度か送って

下さった。亡くなられた週にも届いていたので、友人が訃報をで知らせてくれた時は信じられなかった。

今もシルクラブの空間には、あらゆることに丹誠をこめた御主人の想いが漂っている。


11月8日(火)

若き日の中村吉右衛門さん
     二代目中村吉右衛門

中村吉右衛門さんが亡くなられて一年近く経った。私が吉右衛門さんを知ったのは1964年、東京オリンピックの興奮冷め

やらぬ晩秋にNHKで放映されたテレビドラマだった。芸術祭参加作品というキャプションと題名を辛うじて覚えているが

筋書や配役は思い出せない。ただ主役を演じた瘦身の青年が陰鬱な表情で遠くの山を眺める場面だけ不思議なほど深く

心に刻まれた。放映の次の日、学校の親しい友人も見たようなので「染五郎さんに似てたね」というと「似てたね」と頷いた。

その頃、市川染五郎さん(現・二代目松本白鸚)はテレビでギターを弾きながら歌ったりする番組を持つスターだった。私は

音楽に疎いのでほとんど見たことはなかったが、教科書にプロマイド写真を挟んでいる同級生もいた。かなり後になって

テレビドラマの痩身の青年は二代目吉右衛門襲名前の中村萬之助さんで、染五郎さんの弟だと分かった。

1970年兄弟が修行のために結成した“木の芽会”の十周年記念公演が私にとって歌舞伎との出会いとなった。三宅坂の

国立劇場での<勧進帳>は吉右衛門さんの弁慶、染五郎さんの富樫、最後の飛び六法という派手な様式が印象的だった。

兄弟は義経に坂東玉三郎さんを望んだそうだが養父の守田勘彌さんが「女形の修行中だから」といって許可をしなかったと

訊いている。

”木の芽会” 26才の弁慶
 二代目中村吉右衛門

しかし、玉三郎さんの義経は1988年の正月公演で実現する。玉三郎さんを迎え、弁慶の吉右衛門さん、富樫の九代目

松本幸四郎さん(現・二代目白鸚)はそれぞれの個性を発揮し、見事な<勧進帳>となった。特に山伏問答の勢いと

緊張感ある明晰な丁々発止はエンドレスであって欲しいとさえ思った。

玉三郎さん初役の義経 
 坂東玉三郎

吉右衛門さんの歌舞伎はその後も見る機会が多く、評価も初代を超えたと絶賛されるようになり、異議は毛頭ないが私の

好む吉右衛門さんは新派の泉鏡花作品の中にいる。新派には<日本橋>、<婦系図>など鏡花原作のレパートリーが

あり、私が観始めた頃は初代水谷八重子さんが中心だった。その大女優が主役の<滝の白糸>に若い吉右衛門さんが

相手役の村越欣弥として客演する舞台を観た。気っ風のいい水芸の太夫が二度会っただけの法律を学びたいと打ち明けた

馬丁に、酔狂だからといって学資を送り続けることになる。しかし水芸は夏のもので次の春まで収入はなく苦労が絶えない。

心配した興行主がお金を貸してくれるが仲間に奪われてしまう。失意の太夫は仲間が残した刃物を持って夢遊病者のように

さまよううちに、誤って人を殺してしまう。刃物が現場に落ちていたため犯人は仲間だとされ、太夫は証人として法廷に立ち、

立派な判事となった村越と再会する。犯人にされた仲間は太夫からお金を奪う時、脅すために刃物を使っただけだと主張し、

太夫はお金など奪われたことはないと応じた。拳をにぎり、目をとじて訊いていた村越は懊悩を極め、真実を述べるよう諭す

ために恩人の太夫に語りかけるセリフの冒頭が忘れられない。

「水島友」、ミズシマトモは太夫の名前で、村越の万感の想いがこの名前に込められ、体の中を何かが走り抜けるような

感動を覚えた。友は切々とした言葉に打たれて自白し、その場で舌をかみ、村越も後を追うように自殺する。友は村越に

名前を呼ばれただけで浄化されたのではないだろうか。

<滝の白糸>の散らし 初代水谷八重子と
 二代目中村吉右衛門

村越欣弥
 二代目中村吉右衛門

この舞台を観て何年も過ぎた頃、芝居好きな先輩から電話があり、その日の歌舞伎の招待券があるので付き合ってもらえ

ないかといわれた。商工会議所のドンが用意してくれた招待券なので空席にできないと、かなり焦っていた。急なことだが

吉右衛門さんの<俊寛>が演目に入っていると聞き、出かけることにした。歌舞伎座でお会いしたドンと呼ばれる方は

銀座のママさん達を伴い、八十才半ばとお見受けするがアロハシャツ、首には金鎖をかけていた。少しビックリしたが品があり

柔和な笑顔で挨拶をしてくれた。幕間には広い部屋に通され食事をしたが、播磨屋の番頭さんらしき年輩の男性が付きっ切りで

接待をしてくれた。ドンは初代吉右衛門の頃から播磨屋贔屓のようだった。帰りはママさん達に見送られ、三人でタクシーに

乗った。ドンと先輩は仕事の話を始めたが何億円という数字が飛び交うので私は黙って外を眺めていた。先輩が先に降りた後、

ドンは「あいつも老けたなあ」と接待してくれた男性のことから、初代吉右衛門さんとの思い出を色々と話してくれた。次第に

お疲れが出たのか少しずつ声が低くなり、眠ってしまわれた。しばらく経ってからである、眠ったまま「水島友」とつぶやいた。

私は驚いて、この方も吉右衛門さんが演じる村越欣弥のセリフを聴いている、そして何年過ぎても忘れないでいると思い、

胸が熱くなった。吉右衛門さんは、二度も感動を与えてくれた。

吉右衛門さんが客演する新派の<婦系図>や<歌行燈>も続けて観ている。どの舞台にも忘れられない場面があり、鏡花の

世界を鏡花以上に深く表現できる役者は、もう現われないと思う。

吉右衛門さんは亡くなられる年の1月頃、「ふっと何だか死んじゃうような気がする」と身内の方にいわれ、「自分の葬式ではこの曲を流して

ほしいと思っている」とマーラーの交響曲5番4楽章<アダージェット>を示したそうだ。私は息を吞んだ。偶然にも私は同じことを身内に伝え

<アダージェット>のCDを何時も近くに置いてある。疲れた折に時々聴いていたが、当分、聴くことはないだろう。

 <土蜘> 僧 知籌
      二代目中村吉右衛門

10月14日(金

久し振りにに高田馬場へ行った。仕事 が忙しい時期には一週間のうち何度も出向く町だったので西武新宿線の定期券を

用意したこともあった。午前中、湯のし屋さんへ頼み午後に受け取り、近くの紋屋さんへ回し、急ぎの場合はその日の

夕方にまた受け取りに出向く、つまり一日に三度、中野の仕事場と高田馬場を往復することも珍しくなかった。

暫く行かない間に駅前の角にある古いビルの建替え工事が進み、鉄骨が外壁に覆われて見上げるような高さになっていた。

ホテルになるらしい。以前は五、六階建?だったように思うが、角は果物屋で直ぐ横に二階の広い喫茶店へ上がる

階段があった。私はその喫茶店で西武デパート<きもの工房>の女性主と面会し、アシスタントになった。後々ビルには

染色の材料店や専門書籍のコーナーがあることを知り、頻繁に利用したので建替え工事には感慨深いものがある。

九月に台風が続き、テレビで駅前の神田川の水量が増しているのを見た。1970年代、仕事仲間が何度も被害にあった

ことを思い出した。引き染の工場は神田川に面しているので溢れた水が流れ込みプール状態になった。一番驚いたのは

絵羽屋さんのことだった。絵羽屋さんというのは振袖や訪問着など全体に絵のような模様のあるきものを染める場合、

まず最初に白い反物をきものの形に仮縫いする人達のこと。着るためのきものを縫う仕立屋さんとは別で、内職として

従事するのは主婦が多かった。内職といっても反物にハサミを入れるには和裁の知識を要し、責任重大の仕事だった。

その元締めとなる人が早稲田通りから坂を少し降りた所に住んでいた。小柄で可愛いおばあちゃんだったがテキパキして

いて反物を持って行くと「仕入れ(既製品のこと)ですか、誂えですかと」と訊ね、応えると「ハイ、あしたの午後」とか

「混んでるからあさっての夕方」とか簡潔に出来上がる日をいってくれた。玄関を入ると正面にタンスがあり、受け取りに

行くと顔を見ただけで縫ったきものを何段目の引き出しにしまったか覚えているようでサッと渡してくれた。

ある日、気分に余裕がありそうなのでタンスのことを話題にすると「でもね、下から二段の引き出しは使えないんです」と

いうので、なぜかと訊ねると「川の水が入ってきて畳が濡れるから……、お預かりしているきものは濡らせません」と、

そして「近頃は一年に二度くらい畳替えをします」と溜息をついた。川の底をコンクリートにしてから被害が増えたそうだが、

山手線と西武新宿線が交差する都会の真ん中で、一年に二度も床上浸水とは!私は返す言葉が無かった。

半世紀以上経ち、先月の台風で神田川の水も勢いが強くなったが一時のことで被害は無かったようだ。しかし、低迷の

きもの業界にとってコロナ禍は一層の打撃となり、仲間同士の会話にも脱力感が漂いつつある。どんなに努力しても

これからの業界に以前のような活気が戻ることはない。寂しくもあるが、きものを着たいという人がある限り、

私は反物を提げて高田馬場を歩くだろうと建替え工事のビルを眺めながら思った。

高田馬場駅前
建物    

8月18日(木)
 
8月といえば10年位前までは郷里の高松で過ごしていました。お盆が終わると早朝の庭では秋を感じるようになります。

その高松の今夏の暑さが凄い。猛暑の日の数がどこの県よりも多く、水不足以外ほとんど天災を知らないのほほんとした

友人や親戚は悲鳴をあげています。お盆に帰省していた友人が帰ってきて「東京は涼しい!」??

友禅染の仕事は家内で行いますので猛暑、コロナに関係なく外出は稀です。閉じ籠る日が何日続いても平気で、何時間でも

机に向かっていたいのですが最近は年齢を意識するようになりました。午後の3時頃から模様の細い線が二重に見え、

眼科の先生に伺うと「疲れです」といわれました。夕方近くから見え辛くなるので明りのせいだと思っていましたら、

長時間の仕事が無理になったということでした。そういえば二重に見えるだけでなく集中力も段々となくなり、仕事は

1日4,5時間が限度だと悟りつつあります。
   
         
 
 6月2日(木)

茶道の手解きをしてくれたのは同居していた祖母で、多分、小学校へ入る前年の6月6日からだったと思います。


当時お稽古事は6月6日から始めると上達が早いといわれていました。

友禅染の仕事に少し慣れて気持に余裕ができた頃、近所でまた茶道を習うことにしました。稽古場でお点前の順番を待つ間に

<淡交>という裏千家の月刊誌を見るのも愉しみの一つでした。まずパラパラとページをめくると、必ず何箇所かに

家元夫人の写真がありました。

裏千家鵬雲斎十五世家元夫人

    家元夫人

    家元夫人

回の写真は<淡交>に掲載されたもので はありません。御覧の通り、とても美しい方でしたので

出版社などから取材の要望は数多あったと思いますが、家元のアシスタントとしてお忙しく、中々

応じることはできなかったようです。今回の写真は、ある雑誌の”私のきもの”という特集に出られた折に

珍しく貴重なので切り取り、大切にしまっておいたものです。

お立場を考慮なさったきもののセンスは抜群でしたが、私は何よりその着こなし方に惹かれていました。

衿元がゆったりとして誰にも真似のできない、たおやかさを感じました。東京の劇場で二度お見かけした

ことがありました。上野の文化会館と日比谷の日生劇場で、二度とも茶道の席では決してお召しにならない

であろう白と黒のクッキリとした縞のきものでした。語学が堪能なことは存じ上げていましたが外国人が

目立つロビーで、やはりたおやかに会話を愉しまれていました。東京の生まれの東京育ち、会話も行動も

早く、常に第一線の国際的女性という賛辞を呈される方でした。


色無地に江戸小紋の裾回しを付けたきもの

    
家元夫人 
     
   
 5月9日(月)

黒田商店で初めてコーディネートしてもらった草履

       草履       

      

 きもの好きな方々に人気の黒田商店を知ったのは日本橋三越デパートでした。何と香川県高松市の、

 それも私が生まれ育った商店街に続く、歩いて10分そこそこにある履物問屋です。何時の頃からか

 町の下駄屋さんと呼ばれる店が少なくなり、デパートの呉服売場に履物のメンテナンスをする催事が

 表れました。しかし黒田商店は他の店とは違い別格な印象を受けました。まず売場のスペースが広い。


  並べられた豊富な鼻緒が一つ一つ凝っています。使われている布は刺繡、更紗、素描など技法も様々で

見応えがありました。 ゆっくり眺めていると優しい物腰の奥さんらしき方が話しかけてきました。布を探して

 一年に一度雲隠れをなさり外国へも行かれるとのこと。「私、鼻緒気狂いなんです」と笑いながら、私が


気に入って 手にしていた鼻緒を見て 「それはベルギーの布です」と教えてくれました。私は思わず

「私、ベルギー気狂いなんです」と答えました。そういう会話からできたのが上の写真の草履です。(現在

使ってはいけない言葉で申し訳ございません。私の初めての海外旅行はベルギーでした)

      
         下駄

  黒田さんは毎年4月と12月それぞれ1か月間、歌舞伎座の木挽町広場に出店なさいます。

 友人からもらった畳表の下駄がしまいっぱなしになっていたので木挽町広場へ出向き、鼻緒を

 選びました。グリーンと黒のレースにしたので軽やかになり、夏は遊びで洋服の時にも履きます。

       
         草履

 
新 宿伊勢丹の黒田さんの催事で時間をかけて選んだ礼装用の草履。格調があり気に入っていますが

 まだ出番がありません。

      
         バックと小物入れ

 
履 物だけでなく、奥さんデザインのオリジナルバックもある。ゴブラン織の布を使ったバックと籠つき小物入れ。
      
         小物入れ

  この小さな袋は勝手に小物入れといっているが、用途は分かりません。一目惚れして持ち帰り、本棚に

 飾ってあります。時々、手の平にのせて眺めると不思議なことに豊かな気持になります。由緒ある布だと

 奥さんが説明してくれましたが、霊力があるのでしょうか?

 黒田さんの御主人は私と同年代で、とてもおおらかです。黒田商店の魅力は、奥さんのセンスの良さに加え


  御主人の履きやすい鼻緒の挿げ方は勿論のこと、”マイソール”のような健康に配慮した独自の製品開発に

 あります。挿げる音に因み愛称が”とんとん”、コロナ禍で上京できないのを残念に思っているお客さんは

 多いと思います。黒田商店へ出向くのを、黒田さん夫妻に会いに行くというお客さんもいらっしゃるようです。

 大いに納得、何事もお人柄ですよね❣



4月18日 (月)
  
古い雑誌を 見ていると懐かしい花道家、安達曈子(とうこ)さんの写真が出てきました。

1960年代中頃から趣味やきものの月刊誌などに登場し、圧倒的に洗練されたきもの姿で

多くの人たちを魅了しました。


収集したかんざしに囲まれた安達曈子さん
     ADATITOUKO

私が高校を 卒業して間もなく、高松へも講演にこられました。大きな花の地紋がある

真っ白なきものに朱と金で織った袋帯、帯揚、帯締は上の写真と同じトルコブルーでした。

面長の顔に独特の髪形、一瞬能面に見え、染色の道に入りたいと思っていた私は

ショックを受けました。地紋がある真っ白なきもの、つまり織ったままのきもので染色加工は

何も施されていません。白無垢という花嫁衣裳を時折見かけるが、日常に着るものでは

ありません。トルコブルーは私も好きな色で呉服屋さんや小物屋さんで探したこともありますが

当時の高松では個性的過ぎて見つかりませんでした。あの日の噇子さんは常識をくつがえす
                                                   
大胆な美しさで、あらゆる意味のショック与えてくれました。高松の講演ではクレオパトラが

アントニウスを迎える日、床や階段にバラの花びらを敷き詰めた話をなさいましたが
                                                                                              
安達曈子さんといえば椿です。花芸安達流という流派に由来があるのか個人的なお好みかは

存じ上げないが、椿とともに伝統的な花道と西洋芸術の融合を追求なさいました。
                 
     
 3 月4日(金)

雛祭りの前日、茶道のお稽古に私が染めた”雛尽くし”の帯を締めたという方から写真が送られてきました。

コロナのため、きものを着ることも控える傾向が続いていたのでホッとした気分になりました。

桜の花が咲く頃には私もきもので出かけたいと思っています。


           

友禅染牡丹の籠 籠


             
二色ぼかしの籠 籠
        

上の写真はきもので出かける折、私が好んで持つ籠です。御註文で染めたきものや帯の試し布を

使っています。昔は紅や紫の鹿の子絞りの籠をよく見かけましたが、今では京都の舞子さんくらいしか

持っていないように思われます。

ある日、溜まった試し布を眺めながら籠を使ってみようと考え、きものの仕立て屋さんから京都の

小物屋さんに送ってもらいました。それが上の友禅染牡丹と二色ぼかしの布のついた籠です。

しばらく経った頃、銀座の”白牡丹”で鹿の子絞りの籠を見つけました。どのようなきものにも合う薄い

蘇芳色でした。できれば夏用も欲しいと思っていますと、手持ちの布でも作って下さるとのこと。

早速、絽のきものの残布を預けました。青い無地なので多彩な糸で組んだ紐を合わせてくれました。


流石に”白牡丹“、洗練された籠となり今でもお気に入り中のお気に入りです。 しかしながら私は

この籠の正式な名前をしりません。どなたか御存知の方に教えて頂きたいと思っています。そして

作って下さる方も身近にいなくなりましたので、どなたか是非、御紹介頂きたいと思っております。


         

夏の籠と絞りの籠 籠 




   
2月20日(日)

再生した長ジバン

     
長ジバン

昨年の暮、親戚から形見分けでもらった男物の長ジバンを女物に仕立直してほしいと

鳥獣戯画文様の生地が送られてきました。仕立直すだけなら当方でなくてもいいはずですが、

すでに洗い張りずみの長ジバンを眺めながら、なるほどと思いました。

亡くなられた持主は東北地方の造り酒屋の御主人で生活の大半をきもので過ごされたと

伺っています。毎月歌舞伎を観るために上京され、劇場へ行く前に銀座の懇意な呉服店で

別のきものに着替えるという徹底ぶりで、歌舞伎座でもかなり注目される存在だったようでした。

写真を見せて頂いたこともありますが180cm以上ある偉丈夫ですが、ちょうど今頃の季節、

熱海の咲き誇る梅と芸者さん達に囲まれ、シャイな少年のように微笑んでいました。ザックリと


したきもの姿はさすがで明治、大正時代の文士のような印象を受けました。

長ジバンも沢山持っていらしたと思いますがが鳥獣戯画文様はお気に入りだったらしく背縫いや

裾がひどく傷んでいました。特に点在するシミがダイナミックで、当方へきた訳はこれだと確信

しました。「このシミを何とかして」形見としてお召しになりたい依頼者の声が聞こえるようでした。

シミを隠す方法は幾つかありますが錆朱に似た色のシミが一番多いので目立たなくするため、

その色で柄を描き加えることにしました。できるだけ本物の絵の中にある風景や植物を選び

ましたが、直径7cmほどの丸いシミには手を焼きました。やっとのことで蛙と兎が相撲をとっている

場面を見つけ、シミの形に沿ってアレンジしました。


        長ジバン


        長ジバン

 
長ジバンの仕立方は色々あります。関東仕立てだった男物から関西仕立ての女物にするには

前竪という部位の生地が足りないので、別の藤色系の長ジバンの残布を合わせることにしました。

仕立の人も手間をかけてくれ、スッカリ新しく見えるようになりました。    


 
  

1月8日(土)


壺垂れぼかしに竹文様の訪問着  上前   
      KIMONO


胸の部分
      KIMONO
       
初春のきものは<金沢万葉集>という名の白生地を使いました本友禅染と素描の訪問着。

全体に亀甲散らしと流れるような万葉集の文字を織り出した地紋になっています。
 
以前から万葉集を深く学びたいと思いつつ、並んだ漢字に戦いて後退りすること度々、しかし

<金沢万葉集>という名の風雅な白生地には一目で心惹かれ、何反も染めました。

ある講演で、万葉集は4516首の内1950首つまり43%が染織に関わる歌だと聴き親近感を

覚えました。更に最近になって四十年以上も本棚に眠らせていた上代染織史を読み始め、

染織を極めるには万葉集がいかに大切かということを知りました。染技法ではなく精神性に

おいてということです。

それにしても<金沢万葉集>という名の洗練された意匠はどなたが考えたのでしょうか。


万葉集の文字だけを金糸で織ってもらった帯地
      帯              
                               
            
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