2021年
     
12月14日(火)
                
”源氏物語明石”の几帳 几帳
                                   
この写真は日本刺繡の草乃しずかさんが瀬戸内寂聴さんに贈られた几帳で、ぼかし染を私が担当している。

<源氏物語>の中から寂聴さんの出身地や名字に因み”明石”を選ばれたと伺った。

四十年ほど前、きものに精通しているお茶人から草乃さんを紹介された。白いブラウス姿の女学生のように清楚な

印象の草乃さんは私の顔を見て目をパチパチさせながら「西武にいらした方でしょ」と仰った。私にとっては初対面なので

詳しく伺うと、日本刺繡を習っている頃、帰りに寄った西武デパートの呉服売り場で私のいる誂染コーナーを知ったそうだ。

そして何時も遠くから眺め、刺繍に使う生地を染める時がきたら、あのコーナーでと思い、ようやく振袖用を頼みにいらした

時には、私がコーナーを辞した後だったとのこと。

紹介されたのは偶然だったのか、必然だったのか、それから長いお付き合いとなった。

誂染コーナーが草木染を扱っていたので草乃さんは私を草木染専門と思われていたようだが、能装束に関心を持たれた

のを切っ掛けに、ぼかし染を多く頼まれることになった。最初は黒柳徹子さん用の二色段だった。
  
         
    
               
”秋草文様”の小袖 KIMONO                                   

能装束から文学作品の主人公、そして<源氏物語>シリーズへと草乃さんのイメージは広がった。

久し振りに誂染ノートの記述を見ると、<源氏物語>用のぼかし染は”若紫”の小袖から始まり、

”夢の浮橋”の打掛まで帯や屏風、几帳を含め五十四帖の内、二十七帖がぼかし染になっている。

代表的な濃淡ぼかしや霞ぼかし、技術の難易度が高い道長ぼかしなど頂いた展示会の図録は

ぼかし染の見本帳のようだ。タペストリーのぼかし染も種々あり、染めるのは大変だったが個性的で

縫い上がった作品には草乃さんの命を慈しむ、ひたむきな想いが込められている。

                

タペストリー”野辺に送る詠”タペストリー

相変わらず家に閉じ籠りの日々だが今年は六月に大学の講師という体験をした。以前から国文学の私塾で

親しくなった共立女子大学被服学科の田中淑江教授に友禅染の話をして欲しいと頼まれていた。

私は人前に出ると咳が止まらなくなるので二の足を踏んでいたが積極的にすすめてくれ、<和服文化論>と

いう講義名になった。100名の学生さん対象だがコロナのため60名はリモート。やはり時々咳をしたが、

若い女性達に接すると気分も晴れやかになり、良い体験だったと思っている。
       

       
        共立女子大学

       
11月2日(火)

七五三のお祝い 三才

        七五三                           

11月になると七五三のお祝で着飾った子供達を見かけるようになる。見ているだけで微笑ましい。

三才の女の子には被布を着せるのが何となく定着しているようだが、以前は赤の無地ばかりで、当方で染めた写真のような

ブルー系は珍しかった。きものは白地の付下でスッキリした花模様、生まれた時のお宮参りの祝着を仕立直している。

最近はリースが主流で各メーカーが競って色とりどりの被布やきものを提供している。デパートも負けず、祝着コーナーには

華やかな本友禅の被布やきものが並んでいる。七才用のきものは本裁ちという大人になっても着られる長さの生地を使って染めるが、

既製品はただ、ただ、可愛さを強調する模様になっていて先々のことまで考えていない。富裕層にそんな心配りは必要ないのだろう。

                                       
三才用 蝶に撫子と紅梅 七五三  
                     


七才用 糸巻に四季の花 七五三  
                    
当方でも何度か七五三の誂染を受けたが、ほとんどお祖母さまからの御依頼だった。上の写真、三才用の誂染には驚き、何と幸せな

お孫さまだろうと思った。別のお祖母さまから七才用を頼まれた折は親戚の方が織られ大切に保管されていた生地を使い、大人になっても

着られる模様にして欲しいという御希望だった。裾はぼかし染で白地を多くし、素描で糸巻を中心に細やかな模様を配した。成長なさって

仕 立て直せば訪問着として着られる。染めたのは、ついこの間のように思うが、七才だった方はもう成人式かな?                                                                                                                

10月4日(月)
            
               KIMONO

写真は大正生まれの茶道の先生が愛用なさった金銀や色漆の糸を織り込んだきもので、頂いた私が地色を青から黒に

色揚した。少し地味になったからといって先生の小学校の同級生が日本刺繍で朱色の菊の花を散らしてくれた。

日本刺繡のKUさんとは、その何年か前に先生を介してお会いし友禅染を習いに見えていた。六十才になられ刺繡糸を

針に通すのが難しくなったので友禅染を、それも学校や教室ではなくプロに習いたいというKUさんの希望を知った先生が

「あなたにお願いしたいのよ」と私に仰った。プロといっても私は業界に入って十年位だったので「まだ修行中ですから」と丁重に

お断りした。しかし、お二人がいきなりアポ無しで我家へこられた時、私はKUさんに一目惚れした。一年中きもので過ごす方だと

聞いていたが、たおやかで、おっとりとした語調が心地好く、この方と一緒にいると学ぶべきものが沢山あると直感した。

その時、締めていらした自作のおもちゃ尽くし模様の帯にも惹かれた。習うのは夜でかまわないと仰るのでお受けすることになり、

長いお付き合いが始まった。

中野区の新井薬師近くに住むようになってKUさんという名字が多いことに気がついていた。徐々に分ってきたことだが、

KU氏一族は南北朝時代から新田義貞の配下として新井地域を本拠地としていた。我家に見えるようになったKUさんの実家は

その本家で、KUさんも嫁入りではなく分家だった。天正時代に創建された新井薬師は一族との関わりが強い。

友禅染の傍らKUさんは糸が残っているからといって刺繍の半衿を幾つか下さった。糸を通すのは「もう勘ですから」と笑っていらした。

鈴が並んだインド楽器の帯もKUさんの刺繍。
      

    おび

KUさんは話好きでもあり、お茶を飲みながら昔の興味深い話を色々伺った。一番驚いたのは新井薬師がかつて浅草寺と

張り合うほど繁栄していたということだった。サーカスや見世物小屋、そして活気のある料亭街のことなどなど……。

そういえば新井薬師の盆踊には元芸者だというおばあさんが何人かいた。体に彫物をしているが近辺の銭湯へは容認で入り、

背中の観音さまを拝む人さえいたと私は誰かから聞いたことがあった。8のつく日、つまり8日、18日、28日に縁日が開かれ

 朝と昼前にそれを知らせる花火が上がった。朝早く寝床にいると頭を殴られるような音がしたことを思い出す。骨董市も有名になり、

今でも中野を懐かしく感じるのは、KUさんと過ごした豊かな時間があったからだと思う。
               
      
9月6日(月)

    OBI

月に虫籠と秋草の帯。今では珍しくなった絽縮緬地に染めているので八月下旬から九月半ば頃まで締めるのが最適だと思う。

見本用に染めたら早速、「長い期間締めたいから塩瀬に染めて」といわれた。なるほど、塩瀬地にすれば秋の間ずっと締められる。

御年配の方だったので虫籠と菊の花を少し小さくした。これも御本人の希望。

合わせているきものは米流(よねりゅう)という琉球柄の米沢織で、随分昔に母が用意してくれたものだがタンスに眠ったまま。

昔は気軽な普段着として重宝がられ、米流はよく聞く銘柄だった。



8月8日(月)
外出することが少なくなったので以前から気になっている麻のきものの、ぼやけた模様を部分的に顔料で色揚している。

麻のきものは着心地がサラッとして涼しく、自分で手洗いできるという良さがある。ただ、昔の麻や木綿に使われている染料は

洗う度に色が薄くなる。これは技術が未熟なのではなく染料の特質で、私と同じ世代の方なら子供の頃に着ていた木綿のシャツが

洗う度に色褪せるのを思い出してくれるはずだ。写真は私が愛用している麻のきもので、何度も洗い白地の秋草模様が

色褪せている。地色の紫が持ちこたえているのは天然染料で染められているからだろう。

                                    
  beforeKIMONO
                                                  
  after  KIMONO

色揚で幾らでもクッキリと見映え良くするこたは簡単だが、長い経年によって生じた人力の及ばない得もいわれぬ古い趣も

残したい。あの戦争を潜り抜けてきたきもの、私の後にもどなたかお召しになる方が現れることを願いつつ、もう少し手を

加えるつもりでいる。絵羽模様なので礼装用として染められたと思うが、私は敢えて自然布の帯を合わせカジュアルに着ている。


        KIMONO



7月14日(水)

イサム・ノグチ考案の照明器具AKARI 
        AKARI 

上野の東京都美術館で<イサム・ノグチ 発見の道>という催しが開かれている。私の郷里高松市にはイサム・ノグチの

アトリエがあり、勝手に親近感を抱いている。写真のAKARIは以前、私が高松市で個展を行った折、会場に飾ったもの。次の

銀座”清月堂画廊”の個展にも別のデザインのものを飾ろうと支配人の女性に相談すると「あら、入口にありますよ」といわれた。

清月堂ビルの入り口には縦長の立派なAKARIが置かれていた。



6月6日(日)

  振袖  振袖

四国の明るい太陽の光と、御家族の愛情をたっぷり受けて育った姉妹の成人式。

御自宅の庭の同じ場所に佇んでいらっしゃるが、ピンク地のYUさんが2008年、ブルー地のERIさんが2010年だったと記憶している。

かつて、この庭で孔雀が飼われていたと伺ったことがある。

お二人とも大学が東京だったので、それぞれ思い出がある。YUさんとは銀座へ刺繍展を観に行ったり、食事をしたり、

ERIさんは我家へ友禅染を習いに来ていた。そして卒業式には自分で染めた訪問着を袴と合わせることになった。



      卒業式

写真ではハッキリ見えず残念だが貝合わせの柄で、とても上品に染め上がった。御年配の方と接することの多い私にとって

大学生との語らいは新鮮に感じられ、愉しい時間を過ごすことができた。

      

4月28日(水)

               振袖
                             
今月は岡山に住んでいる友人から御註文を頂いた、お嬢さまの振袖。東京で大学生だったお父さまとは演劇関係の会で知り合い、

下宿が近かったり帰省方向が同じだったりで親しくなった。彼は岡山の津山の出身で、香川へ帰省する私は途中下車をして

御実家に寄せてもらったことがある。座敷に通され、床の間の古色を帯びた市松人形を見ただけで由緒ある旧家だと察せられた。

振袖の御註文を受けた時、まず浮かんだのは彼の結婚披露宴だった。新婦が東京出身ということもあり結婚式は東京で行われた。

披露宴には新郎新婦の友人達を中心に大勢の人が集まり盛大だった。その中で私は何より津山から上京されている新郎の親戚の

女性達に惹きつけられた。きもの姿の、特に帯! 滅多に見られぬ格調ある帯に息を吞んだ。

                                           
  帯    左袖 kimono                                                                                        
成人式の振袖はきものパンフレットなどでセット販売されるようになったが見栄えのする振袖に対して帯は付属品のように扱われている。

本来は帯が主役なのだ。誂染では合わせる帯選びにも力を入れる。

朱色の地色はお嬢さまの御希望で、生地は鬼しぼ縮緬を使い模様はスッキリ見えるデザインというのがお母さまの御希望だった。

振袖といえば百花繚乱になるが、鬼しぼ縮緬は染料をタップリ吸い込み深い色調になるので思い切って空間を生かす江戸友禅に

染上げた。私としては会心の作。

着付はお母さまが自らなされた。亀甲文様の帯はオーソドックスなふくら雀に結ばれ、立派なお支度となった。


        母娘

    
3月16日(火)

             振袖     
                                        
きものの贅沢さを誇る名古屋。今回はその名古屋で生まれ育った方の登場。関東の大学に入り、お母さまの御配慮で

成人式の振袖を染めさせて頂くことになった。御本人の御希望で、濃い青の地色に植物のカラーの模様。

青や紺の地色を好む若い方は多いが、カラーには驚いた。振袖の模様は華やかなボリュームが必要だが、カラーは

茎が長くスッキリしていて華やかさもボリュームもない。花のような苞も白だけでなく、ピンクやワインレッドを見かけるように

なったが彼女は白をイメージしているだろうと思った。あれこれ逡巡し、流水を加えて動きのあるデザインを考えた。

帯も私が幾つか用意したが、彼女は迷わずグレー地に菊文様のシンプルなものを選んだ。少し地味かなと心配もあったが

送られてきた成人式の写真を見て杞憂だと分かった。帯締、帯揚などに紅梅色を効かせたパーフェクトなコーデネート、

半衿の刺繍や草履も同系色で統一されている。彼女が考えたのかな、それともお母さまとの合作か、時々アルバムから出して

眺めたくなる写真である。



2月14日(日)

              振袖

写真は1995年、兵庫県西宮に住む従兄の長女の成人式。当時は1月15日が成人のための祝日だった。

そして17日の朝、あの阪神淡路大震災が発生した。西宮の甲子園を中心に母方の伯父家族が尼崎や神戸に住んでいた。

年末から香川県に帰省していた私は二度の激しい揺れで寝所を離れ、ラジオのスイッチを入れた。ニュースは徳島県の

新聞配達のおばあさんが地震でバウンドし軽いケガをしたというようなことだけで、震源地などについては判然としなかった。

しばらくしてテレビの画面に見覚えのある西宮近くの高速道路が無惨な形で映った時、従兄達への連絡は不可能だと悟った。

成す術もなく一日半ほど過ぎていただろうか、総領従兄が公衆電話の長い列に並びやっとのことで香川県の親戚の長老に

家族全員命に別状のないことを知らせ、その後は親戚同士の電話リレーで我家にも伝えられた。

この振袖は成人式の前年に染めたもので、写真は震災からかなり経ってから送られてきた。振袖や写真が無事だったことが

信じられないような、感慨も一入だったことを思い出す。

      
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