2019年
12月4日(水)
寒くなってきたので暖かく珍しいコートの御紹介。下の写真は黒地の木綿に白鳥の羽毛を
織り込んだ道行コート。白鳥織と呼ばれ、秋田県では昭和三十年代まで織られていた貴重で
贅沢な逸品。
岩手県にはかつて鶴羽衣(ツルハギ)という地名があり、民話<鶴の恩返し>はこうした雪に
閉ざされた風土から生まれ、自然と融合する知恵を伝えている。そして羽毛は用途を変えつつ
現代の生活をも豊かにしている。
次の写真は彦根藩初代城主井伊直政の孔雀の陣羽織をもとに京都で制作された帯。
孔雀の羽根が織り込まれている。
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月17日(日)
花
嫁行列の切手 安野光雅画伯筆
今年の秋も名残となった。先月からまた郵便料金が変わったらしいので手持
ちの古い切手を
整理しているとタイムリーな銀杏の小道が出てきた。安野光雅画伯の描かれたものなので津和野の
風景だろうか、銭湯の煙突の上に花嫁行列が見える。花嫁は白無垢の衣裳を着て馬に乗っているが、
私は若い頃、麦畑の畦道を朱色の打掛を着て歩いている花嫁を見たことがある。それは岡山から
大阪へ向かう列車の窓からだった。萌黄色の麦畑が眼の前に広がり、遠くに嫁ぎ先の一軒家が
紅白の幕に囲まれて見えていた。好く晴れて萌黄色のまぶしかったこと。私は思わず手を振ったが
初々しく転ばないよう、うつむいて歩く花嫁は気がつかず、仲人らしき黒留袖の年輩の方が会釈を
返してくれた。一瞬ではあったが、昭和の何と平和で幸福な光景だったことか。
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月4日(金)
尾形光琳筆 白綾地秋草模様小袖
光琳が江戸で逗留していた深川の材木商冬木家の夫人のために描いたので冬木小袖とも呼ばれている。
熱海の”MOA美術館”にも酷似した小袖があるので、私は上の写真の方を冬木小袖ということにしている。
茶道を習っている頃、深川の家を建て直す期間だけ通っている大学に近い中野に住んでいる妹弟子がいた。
家業は木場の材木商で、お母さまは船に乗って行き交う仲間の人達と窓越しに大きな声で話をするのが日常だったため、
中野でも声が大きく近所の人達がビックリしていると苦笑していた。その彼女が新しい家の完成した夏、深川祭に招待してくれた。
大通りに面したお寿司屋の二階座敷からは続々と現れる神輿や、水掛祭ともいわれるバケツを持った町内の人達の奮闘ぶりが
よく見えた。お寿司屋の女将さんも商売を忘れたかのごとく、神輿が通る度にバケツの水を思いっ切り若い衆にかけていた。
若い衆の連で群を抜いて人数が多く、いなせで洗練された浴衣だったのが冬木町だった。光琳が逗留した冬木家は町名となって
深川に残り、白地に薄グレーの洒脱でシャープな意匠の浴衣は、どこか冬木小袖の感覚を踏襲しているように思えた。
祭の後、彼女の新しい家に案内された。大きく立派なマンションの最上階だったが、恐らく建物全体を所有しているのだろう。
エレベーターが最上階で開くと和風の庭があり、玄関を入ると正面は三間巾のガラス張りの空間があり、鉄骨の廊下の内側が
広い数寄屋造りになっていた。江戸時代より木場の材木商は巨万の冨を有すると本で読んだが、正にその片鱗に触れたような
カルチャーショックに等しい体験だった。
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月4日(金)
マリアノ・フォルチュニ作 室内着
小紋文様の拡大
上の写真は一九一〇年代ヴェネツィアで作られた絹の小紋染の室内着であ
る。日本から小紋染の
布を輸入して仕立たのではなく現地で染められている。江戸時代に将軍から長崎のオランダ東インド会社
商館長に贈られた絹の綿入れきものが本国へ渡り、男性の室内着として珍重されたことは知っていたが
二〇世紀初頭の服飾界で活躍したマリアノ・フォルチュニ(一八七一~一九四九)については
何の知識もなく、先月”三菱一号館美術館”の<マリア
ノ・フォルチュニ織りなすデザイン>展は興味深く、
新鮮な出会いとなった。室内着の下に重ねたオレンジ色のドレスは、細いプリーツが入った筒状でやはり絹、
ギリシャのアポロ神殿で発見された青銅彫刻”デルフォイの御者”の服装からインスピレーションを得た
フォルチュニの代表作デルフォス。
9月6日(金)
”きもの語り”セミナー
何年も前から参加している日本橋”橋樂亭”での<き
もの語り>セミナーが、昨日久し振りに開かれました。
講師は創業四六〇年、京友禅”千総”の営業本部長、常務取締役をなさった方で、きものの知識だけでなく、
作ること、売ることに対する現場での研鑽が垣間見え、私にとっては格別に有意義なセミナーです。
少し涼しくなったとはいえ、まだ暑さが残るにもかかわらず出席者は100%きもの姿でした。
会場に”千総”の高級なきものを一点飾るのも恒例で、皆さまは楽しみになさっています。昨日は二点でした。
株式会社親日屋主催
8月2日(金)
仕事で恩恵を受けてきた神田川の水に、初めて触れることができた。
先週、高田馬場駅前を流れる神田川で子供達を対象に染体験イベントがあった。
新宿区染色協議会が毎年行い、私の仲間達もボランティアで参加している。
台風が近づくという予報にも関わらず沢山の親子連れが集まった。子供達が一番喜んだのは
染めた後に余分な染料を水で洗い落とす神田川での作業だ。業界では水元(みずもと)といい、
友禅染の場合は友禅流しという。
神田川での水元
一九五五年頃まで、いい変えれば高度経済成長期前まで、水元は神田川でよく見かける
光景だったようだが、急激に水がドロドロに濁ってしまい反物を洗える状態ではなくなったと
聞いている。それは隅田川でも、京都や金沢の川でも同じだっただろう。
この日は親戚母娘のお伴で、写真を撮りながら透き通るように澄んだ水に触れてみた。
よくここまで回復したものだと感動を覚えた。橋の上からも大勢の人達が足を止めて見物
していた。橋の横の階段を降りるとこの写真の場所で、親水テラスと呼ばれている。
現在、プロの水元は川ではなく染工場内の浅いプールや大きな桶状のもので行われている。
7月24日(水)
国宝”松浦屏風”
サントリー美術館で<遊びの流儀
遊楽図の系譜>展が開かれている。
二十四日から”松浦屏風”が出展されるので待ちかねて観に行った。この屏風の美女達は
等身大なので、前に立つと迫力があり、話しかけると応えてくれそうな錯覚に陥る。
会場には遊楽図だけでなく、蹴鞠、羽子板、かるたなど遊び道具も数々展示されていた。
それにしても群衆が輪になって踊る遊楽図の賑やかなこと、風流踊りというそうだ。
花見や盆の時期だけでなく、寒い正月も輪になって踊っている。元来、陽気な民族なのだ。
白洲正子の随筆<遊鬼>の
モデルとなった鹿島清兵衛の写真展も近くのフジフイルムスクエアで
開かれている。後妻になった新橋の名妓ぽん太の写真が多く、当時のきもの風俗が楽しめる。
ぽん太とおゑん
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月28日(金)
<銀花>という雑誌に出会っ
たのは一九六八年、ちょうど今頃と同じような天候の外出すると汗ばむ
時季だった。渋谷駅から青山通りへ出る細い裏道にあるビルの一階に、ガラス窓に囲まれた
明るい本屋ができた。友禅染工房に入ったばかりで慌ただしい日々を過ごしていた私は気分を変える
つもりで中へ入ってみた。読みたい本があるわけではなく、平積みされている<銀
花>という珍しい
名前の雑誌を手に取った。パラパラとページをめくると、硝子、陶器、絵本、詩、人形、ジョン・ウエイン、
ガルボ…………混沌とした項目、しかしそれまでの雑誌とは別世界の鮮鋭なセンスがあり、郷愁をも
感じさせてくれた。特に浦野理一という染織家の<源氏物語>を題材にした藤の花の友禅染に心を
惹きつけられた。<銀花>は
前年の暮に創刊され、私が初めて手に取ったのは四号だった。
それから年に六回発行されるというこの雑誌が待ち遠しくなった。
浦野氏は<源氏物語>シリーズの友禅染だけでなく、ザックリとした風合の織のきものや羽織も制作し、
モデルに新劇の俳優を起用す
ることが多かった。私がこの雑誌に惹かれた一因である。
友禅染といえば誰もが京都を思い浮かべ私もそうだったのだが、新劇を観るために上京し、東京でも
友禅染を学べることを知ることになる。後々分かったことだが浦野氏は鎌倉在住で、小津安二郎映画の
衣裳を担当していた。
現在進行中のNHK朝ドラに新劇に関わる場面が出てくるが、若い人達はどう受け止めているのだろうか。
新劇?どういう意味?なんていわれるかも知れない。
浦野氏の織のきものと浜木綿文様の友禅染
木綿の更紗帯と浦野氏の織のきもの
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月8日(水)
五月の連休は家に閉じ籠り仕事をするのが習慣となっているが、今年は日本橋三井ホールで
行われた”東京キモノショー”(五
月二日~六日)を見るため一日だけ外出した。
”東京キモノショー”はきも
の文化の裾野を広げようというイベントで全国からきものに関わる
業者が参加している。会場は和装小物、カジュアルなきものや帯などのコーナーが縁日のように並び、
ステージではファッションショー、トークショー、和楽器演奏、舞踊、落語、手妻(日本のマジック)など
立ち見が出るほどの賑わいだった。私はまずガイドブックにある自然布のコーナーに寄ってみた。
やっぱり、企画したのは国文
学の先生の私塾で一緒に学んだ若き男性で、キリッとしたきもの姿で
応対してくれた。展示されていた作品の中で葛布のきものが特に見事で、触れると滑るような光沢
があった。
自然布コーナーの葛布のきものと帯
葛
布は葛の繊維を使った織物で、古くは庶民の平服だったが、直垂、袴、裃など武家に好まれ礼服となった。
明治になってからは襖紙や壁紙として存続をはかり、葛布の壁紙はアメリカで最高級品として扱われたが、
戦後になって安い外国品に太刀打ちできず衰退してしまった。
僅かに葛布工房が健在な掛川へ行ったことがある。町の中心には、なぜか以前にも来たことがあるような
懐かしさを感じさせる掛川城があり、遠州空っ風に煽られ天守へ登った。天守は狭く、珍しいことに四方が
襖で囲まれていた。もちろん、葛布を使った襖。それを開けると町が一望できた。側にいるボランティアの
小父さんに探している葛布工房の場所を尋ねると「ああ、カップ屋ね」といって正面の下を指差した。
くずふではなく、地元ではかっぷということを知り、勢いがあっていいなあと思った。残念なことに教えてもらった
葛布工房は休みだった。
掛
川城
休みだっ
た葛布工房
我家にも古い葛布の壁掛がある。あれこれ色紙を変えて楽しんだが、私は十
四代守田勘彌丈の
”御所の五郎蔵”が一番合うように思っている。
御
所の五郎蔵
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月18日(木)
藤文様のきもの 1996年
今年もそろそろ藤の花が咲く季節となる。高松の仕事部屋が藤棚に面していて、近所の子猫が遊びに
来ることもあった。藤の花は美しいが、蔓は成長が早く壁を這うように伸びたり塀をこえて隣家へ侵入したり、
屋根の瓦に絡んだりする。瓦に絡むのが一番厄介で、瓦が持ち上がり雨漏りの原因となるようだ。
しかし、この蔓の自在さは、そのまま意匠の自在さに重なり、様々なきものや帯を染めることができた。
細い蔓は年齢に関係なく、背丈や身巾にも関係なく、自在に動きのある意匠を考えることができる。
上下の写真は高松の個展に出した、レトロに見えるよう苦心した暈し入りの訪問着。
個展の後に同じものを希望される方がいらしたが、同じものは色々な理由で染めるのは難しく
よく似た色調で縞ぼかしになった。
3
月22日(金)
花見の附下
桜
の花びらが散る下で歌舞音曲に興じる人達を文様にした付下げを染めたことがある。
御註文は浦和に住まわれる方だったので一九八〇年代中頃から度々浦和へ出向くことになった。
近くに、久米宏さんのニュースステーションでも生中継された風情ある商店街があり、その中の
庶民的な居酒屋が待ち合わせ場所となった。個室がいくつかあって、男性ばかりの座敷には
芸者さんではなく、コンパニオンというきもの姿の女性達が呼ばれるのをよく見かけた。美容院で
髪をアップに結い、きものは訪問着か附下でかなり気合が入っていた。オレンジ色の地に
派手なグリーンの葉の花など、私が工房で仕事を始めた頃に流行していた原色のきものが多く、
コンパニオンに会うのは楽しみの一つだったが、懐かしいような面映ゆいような気持で眺めた。
バブルといわれた時代でもあり、私の染めた陽気な花見の付下げも、その名残のように見える。
3月2日(土)
お嬢さまの訪問着、お母さまの色留袖と佐賀の方から続けて御註文を頂いた。
二品ともかなり量感のある文様だったので早くWebsiteにアップしたかったのだが写真の上りが不鮮明で
ためらっているうちに月日が経ってしまった。当時のカメラのせいかと思うのだが加工修整もままならず
お許しを願いたい。
訪問着はクリーム地色に古典的な巻物文様。動きのある巻物の中に十二単や几帳、片輪車などを入れた。
色留袖は御所文様で庭園に池や橋、四季の花、そして上前に格調ある御所車、竜頭鷁首(りょうとうげきす)という
貴族や管弦の奏者を乗せる船を置いた。雅楽の”胡蝶”を舞う少年も乗せている。色の名前を言葉でいうのは
難しいが、色留袖の地色は強いていうなら、はんなりした梅紫。きものを染める場合、文様と同じように、いや
それ以上に地色が大事で、この色留袖のはんなり加減は会心の出来映えだった。
秋庭観楓図 綴錦
竜頭鷁首は源氏物語図などに見られる貴族の宴に使われる船で、舳先に竜の頭が彫られたもの(橋の上)と
鷁の首が彫られたもの(左下)の二隻一対になっている。鷁は鵜に似せた架空の水鳥で、今回は華やかな
鷁首の方だけを描いた。
2月8日(金)
立春を迎えると「うちの庭に梅が咲いたから見に来ない?」といった友人を思い出す。
うちの庭とは小石川植物園のことで、彼女の住むマンションは細い道を挟んだ隣にあった。
一、二度お誘いに応じ、静かな園内の梅をゆっくり眺めたが私としては贅沢に感じられる時間
だった。なぜなら梅は眺めるより、描くことの方が多かったからだ。
友禅染の工房に入り暫く経った頃、梅の文様が大流行し、付下、振袖、帯と、来る日も来る日も
梅を描いていた。梅なら目を瞑っていても描けるとよく冗談をいったこともあるが、それを黙らせる
写真集に古書店で出会った。
明治座の<雪手前>で花柳章太郎が着用した”白妙の打掛”
この大胆な白妙の打掛は、伊東深水画伯が新派の名優花柳章太郎のために筆を走らせた逸品で
<花柳章太郎 舞台の衣裳>と
いう写真集に納められている。
花柳章太郎は私が上京する二年前に亡くなり、写真集は亡くなった後、同じ年に出版されているので
当時の人気を推し量ることができる。
江戸琳派の酒井抱一も、打掛に紅梅を描いているが私は断然、深水画伯の方が好きである。枝や幹が
大胆というより奔放で、しかも清々しく、墨の濃淡も絶妙。写真集は中野の古書店で御縁があって
入手できたが、もう一つこの打掛とは御縁がある。
私が出入りしている日本橋横山町の和装小物問屋の女性社長がこの打掛を譲り受け、郷里山形県の
資料館で保管していることを知った。もう何年も前になるが、同業の仲間達と交通の不便な資料館を
はるばる訪ねてみた。残念なことに打掛は展示されていなかった。その後横山町の問屋で資料館の
収集品を少しずつ展示する機会があったが、打掛を見ることはできなかった。お身内らしい社員に、
どうして展示しないのか尋ねると、「傷みが激し過ぎて…」というお答えだった。
記録によれば花柳章太郎が舞台で使ったのは一九五九年の公演だけのようだが、どのような傷み方を
しているのだろうか。私は端切れでもいいから是非見たいと伝えている。もっと深い御縁となりますように。
<花柳章太郎 舞台の衣裳>よ
り
1月1日(火)
初春は吉祥文様の宝尽くしから始めたい。
熟練のお茶人から昨年の初夏、新しくきものを染めるため市松地紋の白生地をお預かりした。
地色は黒に近い紫紺が御希望のようで、見本裂も御持参だった。文様は参考のために
用意していた三~四種の図案の中から、宝尽くしを即決。お好みがハッキリしていて、きものに
精通した方とお見受けした。濃い地色なので糸目糊はグレーにして、本友禅加工から仕立へと
恙無くすすみ、晩秋にお納めすることができた。初釜に是非お召し頂きたい。
宝尽くしの附下
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